今村夏子の『森の兄妹』を読んだ。
これで『あひる』に収録されている短編は読了だ。
『森の兄妹』は、昨日読んだ『おばあちゃんの家』とつながりのあるB面のような物語だ。A面の謎めいていたおばあちゃんの行動のいくつかが明らかになっている。
それはスッキリするかというと、わたしにとってはそうではなかった。謎はそのままでよかったのに・・・という残念な気持ちだ。
もしも三作目も単体の物語として読めたなら、少し違っていたかもしれない。
しかし、わたしは何故がっかりしているのだろうか。
『森の兄妹』を単体の作品として読めば好きな雰囲気なのに、二作を関連させた途端、二つの物語の印象はガラリと変わる。
それぞれの好きだった謎めいた美しさが崩れてしまった。種明かしされ味気ない物語になったと感じてしまったのだ。
これは今村夏子の罠だった。
両方を連続して読むことで、読者をやりこめてしまうのだ。
知りたくなかった。知ってしまったらもう知らなかった時には戻れない。わたしの思い込み、夢想とは知らないからこそ許されている。そしてその夢は、知ってしまったらもう二度と同じ手触りで眺めることはできないのである。
この二作品が並べられていることの意味は大きい。
ひとつひとつには、それぞれ個性の世界があり、見えていないからこそ成立する物語がある。これは間違いなく、わたしの中だけのものだ。
そういうものが同時多発的に発生しているのが世界の全体であるとすると、わたしの世界は事実の総体に飲み込まれ、夢見る余地は奪われ、身動きのとれない正解の中に組み込まれてしまうのだということ。
今村夏子の『おばあちゃんの家』と『森の兄妹』を続けて読むと、そのことを感じさせるのだ。
やはり今村夏子の世界だった。こわい作家だ。そして面白かった。すごかった。良い本を読めた。嬉しい。ありがとう。


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