今村夏子の『あひる』を読んだ。
以前に読んだ『むらさきのスカートの女』のような読後感がある短編だ。
今村夏子はわりと好きな作家だ。
読みやすい文体なのに、普通の光景を不気味にざわつかせる。
この不安定な気配には温度がない。通常なら冷たさがありそうなのに、どこか生ぬるい空気を纏っていて、それが妙に近いのだ。
まさに異質な本の世界と、自分がいる現実世界が混ざり合い、滲みだして、溶け合い始める。ちょうどその境目のような世界。真ん中で両者を侵食しながら輪郭を消していくのが、今村夏子の世界だ。
『あひる』には何が描かれているのだろうか?
ある日やってきたあひるののりたまは、両親と主人公の女性の静かな3人家族の家に変化をもたらした。
のりたまは病気になるたびに、あたらしいのりたまに交換されていく。
だが、誰もそのことには触れないのだ。
主人公が最初ののりたまと違うことに気が付いたけれど、そのことを飲み込んで何も言わず、二代目ののりたまを受け入れる。周囲の誰も気が付いていないから、違和感をそっと飲み込む。
だけど、三代目ののりたまが死んだ時、初代ののりたまから知っている子どもが、「一匹目ののりたまが好きだった。前の二匹もお墓の中にいるのか」と聞いた時、この世界の終りがきたのだ。
解説には、可愛がられ愛されるのりたまが、その見た目の可愛さゆえに愛されているのであり、しかしそれゆえに交換可能な存在であると書かれていた。
確かにそうだ。
のりたまののりたま性が愛されていたのではないのだ。
この小説の中の人々は、全員がそのような存在なのである。
のりたまを目当てに訪れるたくさんの子どもたち。
主人公の両親は、子どもたちが訪れるようになった事実を楽しみにしているのであって、のりたまはそのための道具だ。
しかしその両親は、子どもたちの詳細をまったく覚えていない。
名前を覚えていない、うちに来たことがあるかどうか程度の関心しか持っていない。
やってくる子どもたちの誕生日会のために御馳走を用意したのに誰も来なかった。
しかし、その子に会えなかったことに落ち込んでいるわけではないのだ。
彼らは、他者と関わる際に必ず必要な外側さえ、どうだっていいのである。
交換可能な外側、交換不可能な内側、そのようなものがあると、わたしたちはなぜか信じている。
しかし、本当にそんなものは存在しているのだろうか?
今村夏子が描く世界は、出来事は書かれているが、そこに登場してくる人間の内面は描かれておらず、また出来事に隣接するものたちの外側の輪郭さえも取り払っている。そして、それがあると信じているわたしたちに「何かが存在しているのかどうか」という気配だけを残している。
問いさえも問わない。それが今村夏子の世界のように感じた。
不気味さの正体は、この世界の中ではなく、わたしが無意識にあると前提しているわたしの境界線が、本当に線なのか?という気持ち悪さなのだ。
つまり不気味の正体は、読んでる人間の中にだけ存在している。内側も外側もあるかどうかわからない。だが不気味という気配だけはあるのだ。


コメント